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施餓鬼法要に思う——受け継がれていく慰霊の心

8月20日
読了時間: 3分

8月19日、菩提寺で行われた施餓鬼法要に出席しました。

お盆が終わって間もないこの時期、毎年8月19日に行われる恒例の法要です。

しばらく涼しい日が続いていましたが、季節が戻ったように、また厳しい暑さとなりました。しかし、お寺の本堂には冷房が入っており、とても涼しく快適でした。

冷房が設置されてから、もう4年になるそうです。

ひと昔前は、冷房がなくても何とか法要を行っていたのでしょう。とはいえ、夏の暑い盛りに衣を身につけて読経される住職は、さぞ大変だったことと思います。

この辺りには曹洞宗のお寺が多く、施餓鬼法要の際には、近隣のお寺の住職が互いに協力して勤めておられるようです。

父は、亡くなる直前までこの法要に出席していました。

母も近年まで、施餓鬼の膳を準備する手伝いをしたり、法要で御詠歌を披露したりしていました。しかし、コロナ禍を境に法要の規模は縮小され、参列者もずいぶん少なくなったように感じます。

恥ずかしながら、私は最近まで「施餓鬼」という言葉の意味をよく知りませんでした。

少し変わった呼び方だとは思っていましたが、その由来や意味を深く考えたことはありませんでした。最近になって動画などを見て、仏教の説話に由来する法要であることを知りました。

お盆の真実と、執着を手放し開運する方法

施餓鬼とは、飢えや渇きに苦しむ存在に食べ物を施し、その功徳を先祖や亡くなった人々にも振り向けて供養するものだといいます。

この日の法要では、先祖供養と併せて、戦没者の慰霊も行われました。

8月は、終戦の日があり、盂蘭盆があり、そして施餓鬼法要があります。思えば、亡くなった人々に心を向け、静かに手を合わせる機会が続く「慰霊の季節」なのかもしれません。

子どもの頃や若い頃の私にとって、お盆とは家族や親戚が集まり、墓参りをする日という程度の理解しかありませんでした。

正直にいえば、毎年同じことを繰り返す行事を、面倒に感じることもしょっちゅうありました。

しかし、何十年も繰り返されてきた恒例の行事に、今は両親に代わって私が出席しています。

そうして本堂に座り、読経を聞きながら手を合わせていると、亡くなった人を思い、慰霊することの大切さが、少しずつ心身に沁みてくるようになりました。

寺院を維持することも、住職がその役割を担い続けることも、地域の人口減少や高齢化のなかで、年々難しくなっているように感じます。法要の規模が小さくなり、参列する人が減っていく光景にも、時代の流れが表れています。

それでも、仏教や寺院の行事が、これほど人々の暮らしのなかに根を張り、今も受け継がれている国は、日本ならではなのかもしれません。

施餓鬼法要は、亡き人を供養するだけでなく、両親から自分へと移ってきた役割を確かめ、過ぎていく時の流れに思いを巡らせる日でもありました。

日本の伝統行事に触れながら、先人や家族の歩みに静かに心を寄せる。

歳を重ねた今、施餓鬼法要は、そんな大切な時間になりつつあります。


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