戦没者慰霊祭に思う――戦後81年、家族が紡いできた命と記憶
【秋晴れの下、静かな慰霊祭】
2026年10月15日、戦没者慰霊碑前で、戦没者慰霊祭が執り行われました。
この日は美しい秋晴れ。
暑くもなく寒くもなく、秋の凛とした空気に包まれた穏やかな一日でした。
今年の参列者は12名。
町が主催する式典で、宗教者による読経や神事などはなく、近藤町長による式辞の後、参列者が一人ずつ白い菊の花を慰霊碑に捧げました。
式典はおよそ30分。
コロナ禍以降、参列者も少なくなり、現在も人数が制限された形での開催が続いています。
ささやかな儀式ではありましたが、静かな時間の中で、戦争によって亡くなられた方々に思いを寄せました。
慰霊碑のそばには、色とりどりの折り鶴が山のように供えられていました。
千羽鶴ならぬ、万羽鶴。
一羽一羽に込められた平和への願いを思うと、慰霊の意味は決して式典の規模だけで決まるものではないと感じました。
【慰霊碑に刻まれた祖父母の名前】
式典が終わった後、慰霊碑に刻まれた祖父の名前を改めて確認しました。
そして碑の裏側には、遺族会の副会長として慰霊碑の建立に関わった祖母の名前も刻まれていました。
昭和19年(1944年)頃に出征し、翌昭和20年(1945年)5月31日、南太平洋のブーゲンビル島で戦病死しました。
終戦を迎える、わずか76日前のことでした。
健脚で、陸上競技の大会でも活躍していたという祖父。
家業を営む長男でもありました。
祖母は生前、祖父に召集令状、いわゆる「赤紙」が届いたときのことを話してくれました。
家の跡取りとして事業を営んでいた祖父が、なぜ戦地へ行かなければならないのか。
祖母は、そのことに強い憤りと無念を感じたそうです。
昭和17年(1942年)生まれの母は、当時まだ2歳か3歳。
祖父は若い妻と幼い娘を故郷に残し、遠い南方の島で命を落としました。
祖父がどのような思いで最期を迎えたのか、今となっては知ることができません。
ただ、家族を思い、故郷への帰還を願っていたのではないかと想像せずにはいられません。
【祖母が訪ねた鳥取の陸軍兵営】
祖母から聞かされた話の中に、祖父が鳥取市で軍事訓練を受けていた頃、その場所まで訪ねて行ったというものがあります。
そこは、後に鳥取三洋電機の工場となった場所だったと聞いていました。
調べてみると、鳥取市立川町には、かつて旧陸軍歩兵第40連隊の兵営があり、戦後は鳥取大学、さらに鳥取三洋電機へと引き継がれていたことがわかりました。
祖母が訪ねたのも、この兵営だった可能性があります。
若い妻と幼い娘を残し、遠く南方の戦地へ向かうことになった祖父。
祖母はどのような思いで訓練中の祖父を訪ねたのでしょうか。
そのとき交わした言葉を、今となっては知ることができません。
しかし、祖母が生涯にわたって祖父を想い続けていたことは、私の記憶の中に今も鮮明に残っています。
【戦地での祖父の人間模様】
祖父については、祖母からさまざまな話を聞かされました。
戦地では、共に出征した仲間を助けたこともあったそうです。
その方は、戦後、町の教育長を務められた方でした。
過酷な戦地で祖父に助けられたことを、後に感謝を込めて祖母に伝えてくださったといいます。
戦争という極限の状況の中でも、人と人とのつながりがあったことを感じさせる話です。
祖父は、家族のため、仲間のために懸命に生きた人だったのでしょう。
私が知る祖父は、写真と祖母の語る思い出の中にしか存在しません。
しかし、そうした話を繰り返し聞くうちに、会ったことのない祖父の人柄が、少しずつ私の中に形づくられていったように思います。
【戦後の家族を支えた人々】
母は、まだ2歳か3歳という幼い頃に父親を失いました。
その後、祖母や曽祖父母に育てられ、やがて婿養子となる父を迎え、長男として私が生まれました。
祖父を失った後、幼い母と祖母を支えたのは、林業を生業としていた曽祖父母でした。
当時の暮らしは、決して楽なものではなかったと思います。
一家の大切な働き手を戦争で失い、幼い子どもを抱えた祖母にとって、曽祖父母の存在はどれほど心強かったことでしょう。
山とともに生き、林業によって生計を立てながら、家族を支え、家を守り続けてくれたのです。
戦争が終わったからといって、突然平和で豊かな暮らしが訪れたわけではありません。
戦後の混乱の中で、家族を守り、暮らしを立て直すために懸命に働いた人々がいました。
戦争を生き抜いたということは、戦場から生還することだけではなく、戦後の厳しい現実を生き続けることでもあったのだと思います。
【祖母が歩んだ戦後の人生】
祖母は戦後、遺族会の活動に熱心に取り組んでいました。
地元だけでなく、各地へ足を運んでいたことを覚えています。
毎年8月15日に東京の日本武道館で行われる全国戦没者追悼式にも、何度も参列していました。
娘である母と一緒に参加することもあれば、孫である私も同行したことがあります。
また、鳥取県の護国神社にも寄付をしており、その名が記された名簿を確認したこともありました。
祖父の法事では、いつも涙を流していた祖母。
時折、祖父の思い出を私に聞かせてくれました。
祖母にとって、夫を失った悲しみは、長い年月が過ぎても消えることのないものだったのでしょう。
それでも祖母は懸命に生き、家族を支え、遺族会の活動にも尽力していました。
戦争は、戦場で命を落とした人だけでなく、残された家族の人生をも大きく変えてしまう。
今、改めてそのことを感じています。
【祖父の名前を守り続けた祖母】

今回、久しぶりに祖父の勲記を取り出してみました。
昭和40年(1965年)10月30日付で、祖父は勲八等から勲七等に叙され、青色桐葉章を贈られています。
祖父の名前は「洒(たかし)」。
「洒」という字は「酒」によく似ていますが、右側のつくりが異なる珍しい漢字です。
祖母は、この名前について何度も話してくれました。
祖父が旧制中学に通っていた頃、この名前を正しく読める先生がなかなかいなかったそうです。
ところが、一人だけ正しく読んでくれた先生がいたといいます。
祖母は、そのことをいつもうれしそうに話していました。
そして戦後、この名前をめぐってもう一つの出来事がありました。
国から勲記が贈られることになった際、最初は「洒」が「酒」と誤って記されていたそうです。

祖母はその訂正を求めました。
国から発行された正式な文書だったため、役場の職員の方は大変苦労されたと聞いています。
たった一文字の違い。
しかし祖母にとっては、決して小さな違いではなかったのでしょう。
祖父が亡くなって20年が過ぎても、祖母は夫の名前を大切に守り続けていました。
改めて勲記と祖父の軍服姿の写真を眺めながら、祖母が語ってくれた数々の思い出がよみがえってきました。
【祖母が果たせなかった夢】
祖母には、かつて学校の先生になりたいという夢があったそうです。
しかし、その時代は祖母の希望をかなえてくれませんでした。
戦時中には軍需工場のようなところで働いていたとも聞いています。
そんな祖母にとって、孫である私が教職の道に進んだことは、何よりもうれしい出来事だったようです。
祖母は私をとてもかわいがってくれました。
今になって思えば、祖母が果たせなかった夢への思いも、私に重ねていたのかもしれません。
私は教職員となり、子どもたちと向き合う日々を送ることになりました。
祖母は、私が教員として勤め始めてしばらくした頃に亡くなりました。
祖母の人生を振り返ると、戦争によって多くのものを失いながらも、次の世代に希望を託していたように感じます。
【父が地域に残したもの】
そして、父の存在も忘れることはできません。
母と結婚し、婿養子として家族の一員となった父は、教員として教育の道を歩みました。
その後、県教育委員会や町の教育長として、地域の教育に尽力しました。
さらに、地域の防災コミュニティを創設するなど、教育の枠を超えて地域社会にも貢献しました。
戦争によって大きく変わってしまった家族の歴史。
しかし、その後には祖母や曽祖父母、父、母、それぞれの人生がありました。
そして私もまた、教員として地域の子どもたちに関わる仕事に携わることになりました。
振り返ってみると、祖父の死によって途絶えたものがある一方で、残された家族によって守られ、受け継がれてきたものも数多くあったのだと思います。
祖父は戦地で仲間を助け、祖母は遺族会の活動に尽力し、曽祖父母は家族を守り、父は教育と地域社会に貢献しました。
それぞれの生き方は異なりますが、共通しているのは、自分一人のためではなく、誰かのために生きてきたということです。
【戦争の記憶を語ってくれた人々】
私が大学に通っていた頃、下宿先のお爺さんは復員兵でした。
戦争から生還した後、下宿を営みながら暮らしておられました。
下宿生は何人もいたのですが、なぜか私ばかりが呼び出され、アルバイトだと言われて、スイカの収穫や芋掘りを手伝わされたことを覚えています。
今となっては懐かしい思い出です。
そのお爺さんからは、時折、戦争中の話も聞きました。
日野郡出身の兵士とも交流があったそうで、
「日野郡の人たちは、あまりしゃべらないけれど、静かで強い人が多かった」
と話してくれました。
そう言われると、私自身もそれほどおしゃべりが得意ではありません。
何となく、故郷の人々の気質を言い当てられたような気がしたものです。
また、現在の鳥取空港のあたりには、かつて「赤とんぼ」と呼ばれる飛行機の訓練場所があったとも聞かされました。
調べてみると、実際に戦時中、鳥取市湖山町には陸軍の練習機用飛行場が存在していたことがわかりました。
ただ、そこで「赤とんぼ」と呼ばれる練習機が使われていたかどうかまでは、確認できていません。
何気なく聞いていた話が、後になって歴史の一場面とつながることがあります。
祖母から聞いた祖父の話も、下宿先のお爺さんから聞いた戦争の話も、今となっては貴重な記憶です。
直接話を聞くことができた世代が少なくなっていく中で、そうした小さな証言も大切に残しておきたいと思います。
【不思議な巡り合わせ――江田島での勤務】
その後、私の教員人生には思いがけない転機が訪れました。
県外派遣によって、広島県の江田島で勤務することになったのです。
勤務先は、かつて旧海軍兵学校が置かれていた敷地でした。
現在も海上自衛隊の学校が置かれている場所です。
明治時代から海軍士官の教育が行われ、戦後は海上自衛隊の教育施設へと引き継がれた歴史ある場所でした。
戦争で祖父を失った家族に生まれ、祖母の願いを受けて教員になった私が、旧海軍兵学校の敷地で働くことになる。
当時は思いもしなかったことですが、今振り返ると不思議な巡り合わせを感じます。
そして今日の慰霊祭でも、そんな縁を思い起こす出来事がありました。
参列者の中に、近所に住む元海上自衛官の方がいらっしゃったのです。
その方も江田島で訓練を受けた経験をお持ちで、式典の後、久しぶりに江田島や海上自衛隊の活躍の話題で会話が弾みました。
これもまた、何かのご縁なのでしょう。
戦争とは何か。
平和とは何か。
軍の歴史を知ることも大切ですが、そこで生きた人々の人生や、戦後に受け継がれてきたものにも目を向けたいと思います。
歴史とは、教科書に書かれた出来事だけではありません。
私たち一人ひとりの人生や家族の歩みの中にも、確かに存在しているのだと感じます。
【戦後81年、受け継いでいく命と記憶】
今年は終戦から81年。
戦争を直接体験した世代は少なくなり、遺族も高齢化しています。
私の母も昨年までは慰霊祭に参列していましたが、今年は高齢のため参列を見合わせました。
かつて祖母が参列し、その後は母が参列し、今は私が慰霊碑の前に立っています。
こうして考えると、慰霊祭とは、亡くなられた方々を追悼するだけでなく、家族や地域の歴史を次の世代へとつないでいく場でもあるのでしょう。
祖父は戦地で亡くなりました。
祖母は夫を失いながらも、幼い娘を育て、戦後を生き抜きました。
曽祖父母は林業を営み、家族と家を守り続けました。
母は父親のいない時代を生き、やがて新しい家庭を築きました。
父は教育と地域社会に尽力しました。
そして私は、祖母から聞いた話を通して、会うことのなかった祖父の人生を知りました。
こうした一つひとつの家族の歴史が集まって、戦後81年という歳月があるのだと思います。
戦争の記憶は、時代とともに少しずつ遠ざかっています。
しかし、今の私たちの暮らしは、戦争で失われた命と、戦後の困難を懸命に生き抜いてきた多くの人々の人生の上に成り立っています。
戦争をどのように語り継ぐのか。
平和とは何なのか。
簡単に答えの出る問いではありません。
ただ、今日のような静かな慰霊の時間に、かつて生きた人々の姿を思い浮かべ、その人生に耳を傾けることには、大きな意味があるように思います。
秋晴れの空の下、慰霊碑の前に捧げられた白い菊と万羽の折り鶴。
そして、石碑に刻まれた祖父母の名前。
改めてその名前を見つめながら、私という存在もまた、多くの人々の命と願いを受け継いだ先にあるのだと感じました。
慰霊とは、亡くなった人を偲ぶと同時に、その人々から受け継いだ命と暮らしの意味を見つめ直すことなのかもしれません。
戦後81年。
静かな秋の一日、家族が歩んできた長い歳月に思いを馳せました。




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