50年前の教育への警告――『日本人は死んだ』を読んで

近くの図書館に行ってみました。
古い本が無造作に並べられている中に、以前、見覚えのある名前が目に入りました。
表紙は色あせ、中の紙もすっかり黄ばんでいます。
著者はM・トケイヤー。
書名は『日本人は死んだ』。
今ではおそらくつけられないような刺激的な題名で、古い本が並ぶ書棚の中でも、逆に目立っていました。
著者のマーヴィン・トケイヤーは、アメリカ生まれのユダヤ教のラビです。日本に滞在し、日本ユダヤ教団の初代ラビとして活動するなど、日本社会を間近に見てきた人物です。
本書の初版は昭和50年、1975年。
すでに刊行から50年が経過しています。

50年前、この本を読んだ人
この本を手にして、さらに関心を引かれたことがあります。
1975年当時、この地域で誰かがこの本を選び、手に取り、読んでいたということです。
都会から離れた地方の町にも、日本の将来や教育のあり方に関心を持ち、この刺激的な題名の本を開いた人がいたのでしょう。
どのような人だったのでしょうか。
学校の教師だったのかもしれません。
子どもを育てている親だったのかもしれません。
あるいは、当時の日本社会に漠然とした違和感を抱いていた若者だったのかもしれません。
本を読みながら何を感じ、トケイヤーの厳しい日本人論をどのように受け止めたのでしょう。
もし、その人が今も生きているなら、ぜひ感想を聞いてみたいと思いました。
そして私は、今になって初めて気づきました。
現在になって突然、日本の教育に疑問が生まれたのではありません。50年前にも教育のあり方に疑問を持ち、日本の行く末を案じていた人が、この地域にいたのです。
その人が読んだかもしれない同じ本を、50年後の私が手に取り、同じように日本の教育について考えています。
図書館に残された一冊の古い本は、過去の遺物ではありません。
時代を越えて問いを受け渡す、静かな手紙のようにも思えました。
昭和50年という時代
この本が刊行された昭和50年とは、どのような時代だったのでしょうか。
この年は、終戦から30年に当たります。
3月には山陽新幹線が博多まで開業し、7月には沖縄国際海洋博覧会が開幕しました。テレビや冷蔵庫、自動車などが家庭に普及し、日本人の暮らしは急速に便利で豊かなものになっていました。
一方では、昭和48年に起きた第一次石油危機の影響が残り、高度経済成長は終わりを迎えていました。世界に目を向ければ、4月にはベトナム戦争が終結しています。
日本は敗戦から立ち直り、世界有数の経済大国へ向かっていました。しかし、物質的な豊かさを手に入れる一方で、日本人は精神的な支えや、自分で考えて行動する力を失いつつあるのではないか。
トケイヤーは、そのような危機を当時の日本に感じていたのでしょう。
表紙には、
「『仕方がない』の哲学では蘇生できない」
とあります。
問題があっても「仕方がない」と諦め、周囲に合わせ、自分の考えを表に出さない。自ら判断して行動することを避ける日本人の姿に対する、厳しい警告です。
50年前の指摘が今も当てはまる
本書では、日本人の精神の空虚さや主体性の乏しさが、かなり厳しい言葉で論じられています。
外国人から見た日本人論ですから、すべてをそのまま受け入れる必要はないでしょう。
それでも読み進めながら驚いたのは、50年前の指摘の多くが、現在の日本にも当てはまることでした。
特に心に残ったのが、教育について書かれた部分です。
目次には、
「教育とは自主的に学びとるもの」
「教育は技術ではない」
「人生の知恵を教えるのが教育」
「教育は民族を救う」
といった言葉が並んでいます。
これらは、決して過去の教育にだけ向けられた言葉ではありません。
むしろ、現在の日本の教育に向けられた問いのように感じられます。
教育は教え込むことなのか
日本の学校では、同じ年齢の子どもたちが同じ教室に集まり、同じ教科書を使い、同じ時間に同じ内容を学びます。
教師が教え、子どもが覚え、テストによって習得の度合いを確かめます。
この仕組みが、日本の教育水準を支えてきたことは間違いありません。
しかし、社会が大きく変化し、AIが膨大な知識を瞬時に提供してくれる時代にも、同じ教育の形を続けてよいのでしょうか。
知識を記憶し、正解を素早く答えるだけなら、人間はAIにはかないません。
これから必要になるのは、自分で問いを立て、調べ、考え、他者と対話しながら、自分なりの答えをつくり出す力です。
何を学ぶのか。
なぜ学ぶのか。
学んだことを人生や社会にどう生かすのか。
それを自分で考え、判断する力こそが必要になります。
「自主的に学ぶ」ということ
自主的に学ぶとは、子どもを自由にさせておくことではありません。
自分の関心から問いを持ち、試行錯誤し、失敗を重ねながら、学びを自分のものにしていくことです。
そのためには、教師の役割も変わらなければなりません。
教師が「正しい答えを教える人」であるだけでなく、子どもとともに問いを考え、その学びに伴走する人になることです。
教師がすべての答えを知っている必要はありません。
子どもの小さな疑問や発見に耳を傾け、その子が持っている可能性を信じる。異なる考えを認め、互いの力を生かし合える場をつくる。
そのような人間関係の中から、本当の学びが生まれるのではないでしょうか。
教育の根底にあるもの
教育改革というと、制度やカリキュラム、ICT機器などの話になりがちです。
もちろん、それらも必要です。
しかし、どれほど新しい仕組みや機器を導入しても、教育に関わる人の考え方が変わらなければ、教育の本質は変わりません。
私は長く学校現場にいましたが、教育の根底に必要なのは、人間に対する信頼と尊厳だと考えています。
子どもにも教師にも、それぞれ得意なことと苦手なことがあります。誰もが凸凹を抱えています。
それを一つの型にはめるのではなく、一人ひとりの違いを認め、その人の中にある力が外へ現れるのを助ける。
教育とは本来、そのような営みではないでしょうか。
日本人は本当に「死んだ」のか
『日本人は死んだ』という題名は、あまりに刺激的です。
しかし、この本は日本人を見放すために書かれたものではないように思います。
日本人が本来持っていた力を取り戻してほしいという、厳しい願いが込められているのでしょう。
自分で考えること。
自分の言葉で語ること。
異なる意見を持つ人と対話すること。
失敗を恐れずに試してみること。
そして、自分の人生を自分で引き受けること。
そうした人を育てるのが教育です。
50年前に書かれた本の指摘が、現在にも当てはまることを、私たちは重く受け止める必要があります。
一方で、教育によって失ったものがあるのなら、教育によって取り戻すこともできるはずです。
近くの図書館の書棚で偶然手に取った一冊の古い本。
黄ばんだページをめくりながら、私は50年前にこの本を読んだ人に思いを寄せ、改めて、これからの日本の教育について考えさせられました。
この本を読んでみたい方へ
私が図書館で見つけた『日本人は死んだ』は、1975年に刊行された古い版です。
現在は絶版となっているようですが、2000年に刊行された新版が中古本として流通しています。
価格が高くなっている場合もありますので、まずはお近くの図書館で探してみるのもよいでしょう。
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