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春の入口、海と桜の静かな時間

桜はまだこれから。それでも、春は確かにここにある。
桜はまだこれから。それでも、春は確かにここにある。


3月も終わりに近づき、季節は確かに移ろいの只中にある。

年度末という節目は、人の都合で区切られた時間のはずなのに、

なぜか自然の変化とも、どこか響き合っている。

桜の便りが届き始め、まだ開ききらぬ蕾が、次の季節を予感させる。

私はその「あわい」に、身を置きたくなった。

桜の多い公園へ向かうと、枝先には、開く前の力が宿っていた。

満開ではない。しかし、満開よりも、深い何かを感じる。

それは「成ろうとする力」、いのちの内側から、湧き上がるものだ。

空は薄曇り。光はやわらかく、世界の輪郭を曖昧にする。

はっきりしないこの空が、むしろ今の季節に、よく似ている。


薄曇りの海は、どこまでも穏やか。鳥たちの動きが、静けさを際立たせる。
薄曇りの海は、どこまでも穏やか。鳥たちの動きが、静けさを際立たせる。


中海の水面は穏やかで、ほとんど波立たない。

島根半島という、大きな存在に守られ、静けさを保っている。

その姿はまるで、人の心の深いところのようだ。

表面は揺れ動いても、奥には変わらぬ静けさがある。

鳥たちは水に潜り、また浮かび上がる。

見えなくなり、再び現れるその姿に、生の本質を見る。

人もまた、見えない時間の中で、何度も潜り、浮かび上がる。

歴史も同じだ。

この地はかつて、縄文の頃から人が集い、海とともに生きてきた。

市が立ち、船が行き交い、人の営みが続いていた。

今はその姿を、ほとんど留めていない。

しかし消えたのではない。ただ形を変え、奥へと沈んでいるだけだ。

私は海辺に腰を下ろし、静かにコーヒーを淹れる。

湯気が立ち上る様子は、目には見えぬものが、形を持つ瞬間のようだ。

桜のクッキーを口に運ぶと、かすかな甘みが、季節と重なった。

近くでは子どもたちが遊び、笑い声が風に乗る。

その無垢な響きは、時間の重さを、ふっと軽くしてくれる。

人は、何かを成し遂げるために生きているのではない。

こうして、ただ在る時間の中で、何かを感じるためにいる。

そう思えたとき、世界は少しだけ、やさしく見える。

桜はまだ満開ではない。しかし、それでいい。

満ちる前の時間にこそ、最も豊かなものが宿っている。

海と桜のあいだで、私はただ、その流れに身を置いた。

それだけで、十分だった。



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