春の入口、海と桜の静かな時間
- ふなっきぃ
- 3月29日
- 読了時間: 2分

3月も終わりに近づき、季節は確かに移ろいの只中にある。
年度末という節目は、人の都合で区切られた時間のはずなのに、
なぜか自然の変化とも、どこか響き合っている。
桜の便りが届き始め、まだ開ききらぬ蕾が、次の季節を予感させる。
私はその「あわい」に、身を置きたくなった。
桜の多い公園へ向かうと、枝先には、開く前の力が宿っていた。
満開ではない。しかし、満開よりも、深い何かを感じる。
それは「成ろうとする力」、いのちの内側から、湧き上がるものだ。
空は薄曇り。光はやわらかく、世界の輪郭を曖昧にする。
はっきりしないこの空が、むしろ今の季節に、よく似ている。

中海の水面は穏やかで、ほとんど波立たない。
島根半島という、大きな存在に守られ、静けさを保っている。
その姿はまるで、人の心の深いところのようだ。
表面は揺れ動いても、奥には変わらぬ静けさがある。
鳥たちは水に潜り、また浮かび上がる。
見えなくなり、再び現れるその姿に、生の本質を見る。
人もまた、見えない時間の中で、何度も潜り、浮かび上がる。
歴史も同じだ。
この地はかつて、縄文の頃から人が集い、海とともに生きてきた。
市が立ち、船が行き交い、人の営みが続いていた。
今はその姿を、ほとんど留めていない。
しかし消えたのではない。ただ形を変え、奥へと沈んでいるだけだ。
私は海辺に腰を下ろし、静かにコーヒーを淹れる。
湯気が立ち上る様子は、目には見えぬものが、形を持つ瞬間のようだ。
桜のクッキーを口に運ぶと、かすかな甘みが、季節と重なった。
近くでは子どもたちが遊び、笑い声が風に乗る。
その無垢な響きは、時間の重さを、ふっと軽くしてくれる。
人は、何かを成し遂げるために生きているのではない。
こうして、ただ在る時間の中で、何かを感じるためにいる。
そう思えたとき、世界は少しだけ、やさしく見える。
桜はまだ満開ではない。しかし、それでいい。
満ちる前の時間にこそ、最も豊かなものが宿っている。
海と桜のあいだで、私はただ、その流れに身を置いた。
それだけで、十分だった。



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